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【コラム】仮想空間は“装う”の意味を変える?ーデジタル時代のファッションと私たちの関係

ファッションって何なのだろう?ー大きすぎる問いだけれど、これまで多くの思想家たちが様々な答えを投げかけてきた。そしてその多くが、服を着ることを自己表現と結びつけている。

古くは、装うことは自分の階級や金銭的な豊かさを周囲に示すことだった。またパンクやヒッピーのように特定の思想や文化と結びついて、社会抵抗の象徴となることもある。
日常的な些細な場面でも装いでの自己表現はある。例えば制服の丈を少しだけ短くすること、その1cmにもそれぞれの想いがあるだろう。黒を着るか、白を着るか、それだけでも自分らしさを考える。

哲学者の鷲田清一は、私たちは衣服を着ることによって、自分では見ることのできない自分の全身像を想像的に作り上げると考えた。そこで目指すのは単純な美しさやエレガントさではなく、“美しい”と考えられているものをずらしたり、くずしたりすることで、社会の標準や規範と自分との距離感覚を調整しているという[1]。

今回は“装う”ということの歴史的な変化を切り口に、今日のデジタル空間や新たなテクノロジーと結びついたときの“装う”ことについて考えてみたい。

ファッションは社会との繋がり

“装う”ことで自分を表現すること、それを誰もが自由にできるわけではない。本当は着たい服を何も気にせずに着ればいいのかもしれなけど、自分のイメージや社会的立場を考えて、ちゃんと“似合っているか”、“オシャレ”できているかを悩んでしまう。それはファッションが個人的な体験であると同時に、社会的な行為だからだろう。見られる相手や場面を考えたり、何が“オシャレ”か考えたり、自分に“似合う”正解を探していく。

ファッションは、つねに他人からの視線を前提としている。だからこそファッションの歴史のなかでは繰り返し、特定の場でお互いに見せ合うことが行われてきた。それがファッションショー起源といわれているし[2]、ストリートファッションもそうだ。
東京オリンピックがあった1964年、銀座には“みゆき族”と呼ばれる若者たちが集まり、アイビールックに身を包み、VANやJUNの紙袋を小脇に抱えていた。ここでは衣服は仲間と繋がるための“制服”でもあり、“装う”ことは特定のコミュニティにアクセスする第一歩になっていた。

こんな風に、かつて“装う”ということは都市や街路、ショップといった特定の場所を舞台にして、ひとつのコミュニティー想像的なアイデンティティーを作っていた[3]。

日常空間に広がる“装う”

それが今日、特定の場と結びついたわかりやすいファッションスタイルが消失している。
社会学者の工藤雅人は、ファストファッションチェーンの郊外型ショッピングモールやロードサイド型店舗への展開を取り上げ、「ファッションの消費空間の均質化(「どこも一緒」)は、私たちが手にとり購入することのできるアイテムの均質化(「どれも一緒」)をも同時に引き起こしている[4]」と分析している。

そして質問紙調査をもとに、ファッションに関わる空間が日常に近い場所に広がったことで、「どこにいても少なからず自分が着ている服装が示す他者との差異に気を使う」ようになったと明らかにしている。ただ、それは以前のような強烈なスタイルでの自己表現ではなく、悪目立ちしないこと、周囲とかぶらないことを意味していた[5]。

“究極の普通”を意味するノームコアがトレンドとなる今日、ファッションは消費社会が推し進めてきた強烈な自己表現の手段ではなくなった。しかしながら、より日常的なコミュニケーションのなかに入り込み、変わらずに、むしろ身近な分だけより強く、他人からのまなざしを意識した社会的な実践であり続けている。

そして仮想空間へ

こういったファッションの日常生活への広がりは、ECの普及によってさらに加速している。
ファッションとの関わりは現実の場所から切り離され、それは昨今、開発が進んでいるVRやARを利用した通販の普及で、更にその傾向を強めるだろう。この仮想空間への移行は、私たちの“装う”ことの意味を変えるのだろうか。

ECサイトには、膨大な数のアイテムが存在する。そこで私たちは選択に迫られるー何を選べばいいか、自分の好みは何なのか。もちろんこういった選択を楽しめる人もいる。だが、それは本当に“オシャレ”か、自分に“似合う”かを悩んでしまう人も少なくないだろう。
実店舗ではショップ店員やマネキンが手引きとなるが、ECでは他人からの視線を一層、自分自身で想像していかなければならない。売り上げランキングも参考になるが、みんなが良いと思う流行を理解できても、自分自身が纏ったときに“似合う”かを把握することは難しい。

そこで重要性が高まるのが、WEARやインスタグラムなどで自分と同じような他人のコーディネートを見ることだ。
“自分と同じような”というのは単純に容姿だけではない。ファッションが“似合っている”というのも複雑で、単純に肌色体型と合うかも当然大切だが、ライフスタイル社会的立場に合うかも関係する。
つまり、社会的な“自分”との調和だ。なのでインスタグラムでは「のっぽ部コーデ」「ママコーデ」や「通勤コーデ」といったハッシュタグを用いて容姿、属性、場面と情報をカテゴライズし、ユーザー同士が繋がっている[6]。

しかし、これもあくまで能動的な情報収集で、ある程度のリテラシーとモチベーションが求められる。そこで需要の大きくなるのが、データを利用して機械的に情報提供してくれるリコメンデーションサービスだろう。

ファッションの評価に容姿だけでなく社会的アイデンティティも影響するとき、“正解”の提案はどういうデータから可能になるのだろう?
そのためには、複数のプラットフォームを繋ぎ、多角的にユーザーを把握することが必要になってくるかもしれない。
実際にライフスタイル全般を意識してユーザーを掘り下るユニークなサービスとして、音楽ストリーミングサービス「Spotify」の視聴データを利用した服のパーソナライゼーション「FITS」といった先駆的な例も登場している。

“装う”ことが仮想空間で人を介さないで可能になればなるほど、他人からのまなざしを補完する手助けが必要になる。
そこでは一層、データが“オシャレ”のルールを強化し、可視化するかもしれない。
また、“装う”ことがより場面を意識してカテゴライズされるかもしれないし、音楽や食といった多様な文化的趣向と結びつけられるのかもしれない。
大切なのは、“装う”ことにどういうデータが結びつけられどういうインターフェイスで情報提供されるか、それが私たちの“装う”ことへの意識をつくりかえていく可能性があるということだ。

Text: Yoko Fujishima

[1] 鷲田清一『ちぐはぐな身体』ちくま文庫, 1995.
[2] Gill Stark, The Fashion Show: History, Theory and Practice, London: Bloomsbury, 2018.
[3] 空間とファッションの結びきの議論は、下記を参照。工藤雅人「『差別化』という悪夢から目ざめることはできるのか?」, 北田暁大・解体研編,『社会にとって趣味とは何か』, 河出ブックス, 2017. また、特定の場に集まる若者たちへの詳細な議論については、下記も参照。難波功士『族の系譜学ーユース・サブカルチャーの戦後史』青弓社, 2007.
[4] 工藤雅人, 前掲書, p. 217.
[5] 同書, p. 227.
[6] 藤嶋陽子「着こなしの手本を示す:読者モデルからインフルエンサーへ」, 岡本健・松井広志編『ポスト情報メディア論』, ナカニシヤ出版, 2018.