【コラム】1杯のタピオカドリンクよりも安く、1枚の服が買える時代に
1杯のタピオカドリンクよりも安く、1枚の服が買える。一方で、物質としての実体のない仮想上のドレスには、100万円の値段がつく。そんな時代に私たちは生きている。
グローバル化とデジタル化は、私たちとファッションの関係性に良くも悪くも少なからぬ影響を与えた。インスタントにモノも情報も手に入る社会。そこでのファッションのあり方は、私たちが思い描いてきた“ファッション”とは大きく異なるように見え、「ファッションはもう、終わったのか」--そんな問いまでも掲げられている[1]。
この価値の揺らぎは“ファッションの崩壊”と受け止められるような、それほど大きな転換なのだろう。そういった見方はまた、大量生産を可能にしたテクノロジーへの嫌悪感を増幅させる。現代の生産消費のスピードは確かに、1着1着の服と向き合い、自分にとってのファッションについて考えるには早すぎるのかもしれない。でも、そもそもファッションを通じて私たちひとりひとりが表現したいものなんて、この価値システムのなかで本当に存在するのだろうか。
今回は、デジタル時代における私たちの日常生活とファッションの消費について考えてみたい。
現代における「晴れ着」
ファッションの“現在”を考えるとき、個人的に衝撃を受けたひとつが、インスタメディアと呼ばれるRiLiの浴衣の開発ストーリーだ。写真で構成された構成、一緒にコミュニティを作り上げていくような仕掛けで、インスタグラム的なビジュアルでのSNSコミュニケーションに馴染んだ世代に人気を集めたRiLiだが、今年発売された浴衣は初回分が1時間で完売の大ヒット商品となった。
Image Credit : RiLi STORE
CEOの渡邊氏は、昨今のレンタル着物ブームに対しRiLi層の投稿が少ないことに着目し、「RiLi層のインスタグラムのトーンに合う色味の浴衣がない」という仮説のもと商品開発を決めたそうだ[2]。渡邊氏が分析するように、確かに着物は水着よりも抵抗なくSNSに載せることができる。夏の間でも数回しか着ることのできない浴衣は、せっかく着たならアップしたいコンテンツのひとつだろう。
このRiLi浴衣の事例を大学の授業で紹介すると、納得した、共感するという声が多かった。また日常生活での洋服の選び方でも、写真を撮る機会がある予定の日の服装と“何もない”日とでは、オシャレをするという意識に差があるという意見もあった。それはフォーマルにドレスアップするイベントにだけではなく、友達と近所に遊びに行くだけの用事でもあり得ることらしい。“映える服”を選ぶ、まだSNSにアップしていない服やコーディネートを選んで着る、写真に撮られる、共有する--これらが一体化した服の選び方は確かに存在するのだ。
浴衣のように特別な服だけではなく、日常の洋服でもこのような区別があるならば、現代の晴れ着は“SNSに載せたい服”なのかもしれない。繰り返し着ることができる着心地の良い服と、たとえ1度しか着れなくとも“映える”服、同じ価格帯の服でも役割が異なる。後者は体験し、共有することを前提とした衣服で、その意味ではタピオカと等価といえるかもしれない。
「私っぽい」をつくる服とコミュニティ
しかし、デジタルプラットフォームが衣服を1回限りの消耗品にした、なんて言いたいわけではない。デザイナーやセレブリティによって鮮明なブランドアイデンティティを作り上げたファッションブランドよりも、RiLiのようなメディアや身近なインフルエンサーを起用したブランドはインクルーシブだ。ユーザーとコミュニティを作ることでユーザーへの理解を深め、そして当事者でもあり続けている。それは電通総研メディアイノベーション研究部が分析するように[3]、誰かに憧れ、真似する従来のマスメディア型やインフルエンサー型よりも、友人など身近な存在が購買決定に影響を与えるシミュラークル型のコミュニケーション時代のビジネスモデルなのだろう。
今や、メディアやブランド「っぽさ」は、ユーザーが作り上げるものでもある。ユーザーの共有している世界観を反映し、それをキュレーションすることで鮮明なものにし、ユーザーと相互に協同しながら「っぽさ」の共通認識を作っていく。従来のメディアやブランドプロモーションは、服を“買ってもらう”ためのものであった。なのでシーズンのブランドコンセプト、一押し商品を伝えることが主眼になる。しかし、デジタルプラットフォームにおけるコミュニティ型のビジネスモデルは、むしろ販売した“あと”、ユーザーが実際にその服を身に纏い、SNSに共有するところの方が重要であるように思われる。
自分が「っぽさ」を作り上げることに参加したことの実感できるスタイルや衣服は、たとえパーソナルオーダーでなくても、ユーザーにとって機能的にも、感覚的にも“しっくり”くるものだろう。たとえ他の商品との差が微細なものであったとしても、格別の愛着を抱ける。「っぽさ」の基準は曖昧でも、もしかしたらコミュニティとの繋がりへの意識自体が「っぽさ」を感じさせるコアにあるのかもしれない。
「私らしさ」の所在
そう思うと、自分の好みや自分が考える「私っぽい」は、いかに周囲や自分が接触する情報との関係性のなかで構築されたものであるかを考えさせられる。「私っぽい」と、なりたい私。「私っぽい」と、本当に好き。それはどれほど一致するものなのだろう。ファッションの“好き”は食べものと異なり、生理的に感じるだけではない。だからこそ購買データの傾向が示しているものは、ユーザーの自分らしさへの意識や好みと必ずしも重なるものではない。
今日の私たちは、自分の購買情報に基づいてリコメンドされた情報に囲まる状況が増えている。それは自分が考えた「私っぽい」を可視化しているのかもしれないが、同時に、自分の選択への違和感、しっくりこない感覚を覆い隠してしまっているかもしれない。1度限り着るために服を買う人、1度しか着ないなんてことを買う前から想像している人はいるのだろうか。誰もが買い物で“失敗”したくない。それでも、クローゼットに1度しか袖を通してない服が眠っている人は少なくない。
いいなと思って手に取る服、その服をいいなと思わせる根拠が、もっと私に、私の日常生活に寄り添うものになれば、私はその服に何度も袖を通すのだろうか。もしくはたとえ1度しか着れなくても、その服がクローゼットのなかにあるのを見るだけで幸せな気持ちになれるのだろうか。今日、服の価値が共有を前提としたタピオカ的側面を持っているのだとしたら、“買う”体験だけでなく、“着る”体験、“共有する”体験をつくり、サポートするところまでが売り手の役割として一層求められていくだろう。
そんなことを、クローゼットに眠る1シーズンで1度も出番のなかった服を見て見ぬ振りをしながら考えている。
Text: Yoko Fujishima
[1]Adam Geczy and Vicki Karaminas (eds.) The End of Fashion: Clothing and Dress in the Age of Globalization, London: Bloomsbury, 2019.
[2]あさと:::RiLi::: (@asato_dx)
[3天野彬「動画サービスの未来vol.2:スマホネイティブ世代の動画コミュニケーション〜SNS検索の定着とシミュラークルの広がり」
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