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【特集・コラム】コロナ禍に感じた「肌のざわめき」に関する一考察(関根麻里恵)


関根麻里恵 / 表象文化研究者
1989年生まれ。学習院大学助教。日本女子大学人間社会学部現代社会学科卒業、学習院大学大学院 人文科学研究科身体表象文化学専攻 博士前期課程修了。修士(表象文化学)。専門は表象文化、ジェンダー・セクシュアリティ、文化社会学。ファッション批評誌『vanitas』(アダチプレス、2013年)のほか、『ユリイカ』『現代思想』などに寄稿。共著に『ポスト情報メディア論』(ナカニシヤ出版、2018年)、『「百合映画」完全ガイド』(星海社、2020年)、共訳に『ファッションと哲学』(フィルムアート社、2018年)がある。

「ひどく肌がざわめく」――緊急事態宣言の直後からそんな感覚に襲われました。しかし、この「肌のざわめき」が一体何なのかを掴みあぐねいたまま、宣言解除の日を迎えてしまいました。「新しい行動様式」への移行を促されている現在、あのとき感じた「肌のざわめき」を言語化できるかもしれない。そう思い、筆を執りました。

「肌に異常が生じる」ということ

新型コロナウイルス感染症(COVID-19、以下コロナ)が拡大するなかで、アルベール・カミュの『ペスト(原題:La Peste)』(1947年)が再注目されていますが、それより先立つこと約十年前の1937年、チェコの劇作家でジャーナリストのカレル・チャペック――「ロボット」という言葉を生み出したことで人口に膾炙しています――もまた、疫病にかんする戯曲『白い病(原題:Bílá nemoc)』を発表しています。タイトルでもある「白い病」とは、50歳前後の人間から罹患しはじめる疫病のことで、皮膚に無痛の白い点ができたのち身体は悪臭を放って崩壊し、死に至るというものです。

(チェコ文学研究家・翻訳家の阿部賢一さんが、noteで翻訳を無料公開しています。気になった方はぜひご覧ください。)

高齢者がコロナに感染すると重症化しやすいということがニュースになった時期にこの戯曲の存在を知ったのですが、なぜか「肌に異常が生じる」設定に強く興味を惹かれました。コロナは一般的に飛沫・接触感染によってうつるとされています。そのため、私たちはこの数ヶ月、飛沫を防ぐためにマスクの着用、接触したものからウイルスを体内に入れないために手洗いうがい、そしてアルコール消毒液を使用する機会が増えました。しかし、感染予防をするなかで肌に異常が生じるケースもまた、増えたように思います。マスクを長時間着用することで口周りが蒸れてニキビができやすくなった、入念な手洗いやアルコール消毒液の塗布によって手指が荒れたという話はよく耳にするようになりました。コロナ禍において「肌に異常が生じる」状況は、さしあたり感染者ではなくむしろ非感染者のなかで生じているということができるでしょう。

感染することに比べると、肌に異常が生じるということは些末なことかもしれません。しかし、通気性と肌触りの良いマスクを求めて長蛇の列ができたり、肌荒れを防ぎつつ除菌もできるアルコールジェルなどが発売されたりという国内の事象をみるに、肌の異常に敏感になっている人びとの多さがうかがい知れます。

おそらくそういった身近な身体の変化と戯曲の設定が、自分のなかでリンクしたのかもしれません。では、私の感じていた「肌のざわめき」は、「肌に異常が生じる」ことに敏感になっている状態なのでしょうか。部分的には合っているのかもしれませんが、それだけではどうも腹落ちしなかったため、少し見方を変えてみることにしました。そこで思い出したのが、「清潔シンドローム」というものです。

清潔シンドロームの再来?

「清潔シンドローム」とは、清潔への強迫観念――哲学者の鷲田清一の言葉を借りれば「「自己抑制のモラル」ないしは「美学」」(鷲田 2005: 127)――が異様なまでにエスカレートした状況のことです。とくにその志向が強まった1980年代はHIV/エイズの問題が背景にあるわけですが、程度の差はあれ今と近しい状況だと考えることができるかもしれません。

目に見えないものへの恐怖、とくにコロナの場合、自覚症状はないけれど検査をして初めて自分が罹患していることがわかるというように、「もしかしたらすでに自分も感染しているかもしれない」という可能性もあるわけです。そういった宙吊りの状態が続くと、一種のアイデンティティ・クライシスを引き起こしかねません。それが「清潔願望」へと衝き動かすことについて、鷲田は以下のように述べています。

衰弱したアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうのじぶんだけのもの、独自なものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触することをすごく怖がる。じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜でないというかたちでネガティヴにじぶんを規定するしかない。(鷲田 2005: 129)

これを読んだとき、私が感じていた「肌のざわめき」は、――そこに「自分は感染しない」という傲慢さが見え隠れしていることは否めませんが――自分が感染者でないことを証明するために自分の肌≒身体が清潔であることを提示し続けなければならない、自他の境界の最後の防壁である肌を過剰に防衛し続けなければならないことへの途方もなさだったと腹落ちしました。換言すれば、自分が好むと好まざるとにかかわらず、新しい身体感覚――いわゆる「新しい行動様式」に付随する仕草――を習得せざるを得ない状況に巻き込まれていることへの違和感・抵抗感ということです。

一見すると、ここまでファッションとは関係のない話をし続けているようにみえるかもしれません。しかし、なぜ私が「肌のざわめき」という感覚に執着しているかというと、肌≒身体が「第一の衣服」だという見方に立脚しており、それが「ざわめく」という状態が一体何なのかを検討したかったからです。

「当たり前」の刷新

身体にとって衣服というものは、身体に従属するもの――「第二の皮膚」としての衣服――とみなされてきました。これは、マーシャル・マクルーハンがメディアを「身体の拡張」と捉え、衣服は皮膚の拡張だとしたことに端を発していますが、鷲田はE・ルモワーヌ=ルッチオーニを援用し、身体そのものが「第一の衣服」なのだと指摘しています。私たちは成長過程のなかで鏡に映っている”なにか”が自分自身であると認識するようになり、徐々に身体のイメージをまとめていき、そのまとまったイメージこそが「第一の衣服」だというわけです。

これからのファッションについて検討することは、「第一の衣服」である身体について検討することと不可分なのではないかと考えています。私たちは「第一の衣服」を加工する――爪を切る、髪を切る、眉毛を整える、ひげを剃る、ムダ毛を処理する、化粧をする、ダイエットをする等――ことを大なり小なりしてきましたが、コロナ禍において、私たちは今まで以上に、そして今までとは異なるかたちで「第一の衣服」と向き合う機会が増えていくことでしょう。

言わずもがな、人類は何度もファッションと身体の関係を再構築してきました。「清潔」という観点から過去を参照してみると、デザイン批評家の柏木博は、バイアス・カットの創始者でありポール・ポワレと同様にコルセットを外した衣服をデザインしたことで知られるマドレーヌ・ヴィオネが、身体を拘束から解放する一方で身体の汚れや体臭を気にしなければならなくなった衣服のデザインを通して、20世紀の重要な文化現象となっていく「清潔」ということを人びとに意識化させていたと指摘しています(柏木 1998: 43-49)。21世紀を生きる私たちは、今までその意識――衣服を着ることと身体を清潔にすることはワンセット――を「当たり前」に受け入れてきましたが、そういった「当たり前」の見直し、もしくは刷新を余儀なくされている状況の一つが今だといえるでしょう。

大きなうねりのなか小さな変化がもたらすもの

例えば、「清潔」という要素を今まで以上に重視した新しい繊維の開発・発展につながっていくかもしれません。最近の例でいえば、群馬大発のベンチャー企業「グッドアイ」が光触媒銅繊維シート「GUDシート」を開発・販売したのは記憶に新しいかと思います。また、京都の伝統的な西陣織の工場として創業し、現在では銀繊維を活用したIoTウエア事業で急成長している「ミツフジ」が洗って使える高機能マスク「hamon AGマスク」の開発・販売を行ったり、肌着型ウェアラブル端末「hamon」をコロナの軽症患者の体調管理用として京都府の施設に提供したことも挙げられるでしょう。今後は抗菌・防臭効果のある繊維を用いたものがより一般化し、着ながら体調管理もできるようなファションアイテムが「当たり前」に定着していくかもしれません。

一方で、現実世界のそういった煩雑さから距離を取り、身体がバーチャル空間へとますます移行していくことも考えられます。環境汚染や気候変動、政治の機能不全によって荒廃した2045年が舞台の映画『レディ・プレイヤー1(原題: Ready Player One)』(2018年)の「OASIS」ような、VR空間でコミュニケーションやエンターテイメントを楽しむような時代もそう遠くないかもしれません。その部分的な兆候は、コロナ禍で流行した任天堂の「あつまれ どうぶつの森」のマイデザインにハイブランドが参入したことや、「VRchat」内にバーチャルストアを開設した「chloma」の試みなどを挙げることができるでしょう。

私が当初感じた「肌のざわめき」はネガティヴな感覚を引き起こすものでしたが、翻って考えてみると、コロナ禍という大きなうねりのなかで「当たり前」なもの/ことだと思っていたものが大きく変わっていくことを、肌≒身体(「第一の衣服」)を通して予感したものだったのかもしれません。上記で紹介したものは、「あつ森」を例外として中小〜ベンチャー企業および新進気鋭のブランドの試みであり、それらは今までとは異なるこれからのファッション(ビジネス、システムetc.)の展開として期待できるものだと感じています。

さて最後に、冒頭で紹介した『白い病』に話を戻しましょう。第1幕第3場にとある家族が登場するのですが、「白い病」によって50歳前後の人間が死ぬこと――それは自分たちも死の危険がある――にナーバスになっている父と娘のやりとりがあります。

父 (中略)50前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
娘 (ソファでそれまで小説を読んでいた)なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうでもしなければ、行く場所がないんだから。
(中略)
娘 一般論を話しただけでしょ。だって、今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとダメなの!

このやりとりをコロナ禍に置き換えてみると、単純に高齢者は退いて若者に道を譲れということではなく、古い体制や既存の価値観を刷新するためには新しい試みを積極的に取り入れることが大切だ、というふうに解釈することができるかもしれません。これはファッション業界のみならず、さまざまな領域にもいえることだと思います。当然、新しいことをしようとするとそれに対する反発も起こりうるでしょう。しかし、文字通り「何かが起き」てしまった今、私たちができることはトライ・アンド・エラーを繰り返しながら前に進むことです。この大きなうねりのなかの小さな変化が、これからの私たちの生活にとって良い変化をもたらすものであってほしい、そう切に願います。


【引用・参考文献】
柏木博『ファッションの20世紀:都市・消費・性』日本放送出版協会、1998年。
マクルーハン、マーシャル『メディア論:人間の拡張の諸相』栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年。
鷲田清一『モードの迷宮』筑摩書房、1996年。
―――『ちぐはぐな身体:ファッションって何?』筑摩書房、2005年。
阿部賢一「カレル・チャペック『白い病』(第1幕第3場)」『チェコ語の翻訳/Wunderkammer』(最終閲覧日:2020年6月25日)