「百貨店の存在はどうなるのかーー革新をもたらした小売業の誕生とその未来」(藤岡里圭)
かつて日本人は西洋風の建築に胸を踊らせ、百貨店での買い物を楽しんだ。いまでこそ私たちは自由にお店に出入りし、ウィンドウショッピングをしているが、これらはすべて百貨店が生み出したサービスであったことを忘れている。過去を振り返ってみると、百貨店の誕生が小売業に与えた影響は計り知れない。
ところが、昨今ECサイトによるオンライン販売やファストファッションの需要の高まりによって、百貨店の売上が減少傾向にあるというニュースも耳にするようになった。百貨店はかつての輝きを取り戻せぬまま、衰退する運命にあるのだろうか。そこで今回、現在のグローバル時代における百貨店のあり方を考えるために、関西大学の藤岡里圭さんにお話を伺った。
藤岡里圭
関西大学商学部教授。大阪市立大学大学院経営学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(商学)。長崎県立大学経済学部、大阪経済大学経営学部を経て、2012年4月より現職。2009年度オックスフォード大学アカデミックビジター、2016年度エラスムス大学ロッテルダム客員研究員、2022年4月より日本学術振興会学術システム研究センター専門研究員。著書に、『百貨店の生成過程』(有斐閣)、Global Luxury: Organizational Change and Emerging Markets since the 1970s(Palgrave Macmillan)(共編著)など。
戦前から今日にいたる小売業の発展に注目
ーー藤岡さんのご関心やこれまでの研究の概要を教えてください。
私の関心は、小売業態の発展にあります。戦前から小売業が発展していくなかで、百貨店がどのような役割を担ってきたのかについて興味を持ち始めました。
たとえば、戦前の日本には西洋家具を扱うところがほとんどなかったため、百貨店ではヨーロッパから輸入してきた家具を、日本建築に合うようにアレンジする必要がありました。そのためには国内の家具生産者に対する技術的な教育が必要でしたし、絨毯の販売に際しては消費者にどのように使用するのかを説明するイベントを開催していました。こうしたことから、百貨店は単に商品を販売するだけでなく、生産者と関係を構築し、消費者に新しい消費のあり方を発信するキープレイヤーであったということがわかります。百貨店のこのような役割に注目をして、研究を行ってきました。
『百貨店の生成過程』(有斐閣、2006年)では、戦前を中心に百貨店の発展を描いたのですが、次第に戦後の百貨店にも興味を持つようになりました。たとえば大丸は1953年にクリスチャン・ディオールとライセンス契約していますし、三越はティファニーと1972年に提携し、独占販売を始めました。いまでこそ、ラグジュアリーブランドは世界同一価格、同一水準で販売していますが、当時はラグジュアリーブランドだけで日本の銀行口座を開設するのも難しく、外商客を紹介するなど百貨店がブランドを日本で定着させるために果たした役割は非常に大きなものだったのです。そちらについては、共編著 Global Luxuary: Organizational Change and Emerging Markets since the 1970s にまとめています。
最近では、グローバリゼーションやデジタライゼーションに伴う、百貨店のビジネスモデルの転換を研究しています。これまではONWARD、レナウン、三陽商会といった卸業者と百貨店が互いに協力しながら発展してきましたが、昨今ではECサイトやファストファッションでの売上が高まったことにより、百貨店の低迷が課題とされています。このような競争構造の転換や競争原理を分析するために、アパレル企業の調査を進めています。
百貨店の成立とその販売の変化
ーー著作の表題に掲げている「生成過程」に注目されたのは、どのような理由だったのでしょうか。
世界的に見ても、1980年代、90年代は百貨店研究が盛んに行われた時代でした。当時の日本の百貨店研究では、そのほとんどが三越を取り上げていました。日本を代表する小売機関であっただけでなく、三井グループの創業ビジネスでもあったことが大きな理由です。経済界での三井の存在感は大きく、明治維新以降に呉服店の業績が悪くなったことで、三井家から外されることになります。その後、切り離された呉服店は三井銀行から派遣された人たちによって、旧来型の古い番頭システムから百貨店という新しい販売形態への転換がもたらされました。
この過程自体は非常に興味深いものなので、多くの研究者がそこに注目しました。ですが、小売業や百貨店の発展に注目するならば、三越の事例だけでは十分な説明ができないのではないかと考えました。実際、三越のように外から改革できる呉服店は多くありません。そこで高島屋や松坂屋の議事録を調べてみると、内部で悩みながら方向性を探っていたことが明らかになりました。このことがきっかけで、高島屋の研究を始めました。
三越百貨店、1910年、"Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 " by Mochizuki Kotaro, Tokyo, "The Liberal news agency"
ーー三越の場合、銀行から派遣された方々による改革だったとのことですが、高島屋や松坂屋などはどのように改革を進めたのですか。
大手5社と言われている三越、松坂屋、大丸、高島屋、白木屋では、明治初期に同族や有力な社員を海外視察に行かせていました。それとは別に、呉服とそれに関係するものを日本の芸術作品として万国博覧会に出品しており、その一連のプロセスを通じて海外の小売業の状況を理解していました。そうした取り組みが、改革の契機になったのです。
ーー百貨店の成立や発展において、万国博覧会はどれほどの影響を持っていたのでしょうか。
それまで日本では商品を展示せずに売る「座売り」を基本としていました。それが実際に商品を見せて販売する形になったのは、万国博覧会の展示方法をフランスのボン・マルシェが取り入れ、世界中の百貨店がそれを真似したからです。
また、万国博覧会は自分たちの生活文化にはなかった商品を知るきっかけにもなりました。日本は海外のステッキや帽子、洋服や家具を取り扱うようになり、ヨーロッパはオリエンタルブームのなかで日本の絵画や着物を額装したものを取り入れていきます。
結果的に、万国博覧会は商品の幅を広げただけでなく、それらを作るメーカーの育成や消費者の購買意欲を掻き立てるような商品の陳列・イベントなど、新しいビジネスモデルを構築する重要なきっかけになりました。
ーー百貨店の登場によって、座売りからの転換がもたらされたということですが、他にもどのような販売方法の変化があったのでしょうか。
百貨店が登場するまでは入退店が自由ではなく、店に入ったからには商品を購入することが求められました。客は「こういう夏物の着物が欲しい」と思って入店し、店員にそのことを伝えると、奥から2、3着出されて「どれにしますか?」と商品を見せてもらえるわけです。「もう少し見せて欲しい」「今日は結構です」というオプションはなく、出されたものから購入する商品を選ぶ必要がありました。
それに対して百貨店は、陳列販売という新たな販売方法を導入することに成功しました。客が自由に店内を歩き回って、好き勝手に商品を見られるようにしたのです。そのために商品には値札が付けられ、最先端の技術によってガラス製の陳列ケースが制作されました。この転換は、当時の日本人にとって衝撃的な出来事だったと想像します。
三越百貨店のカウンター、1910年、"Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 " by Mochizuki Kotaro, Tokyo, "The Liberal news agency"
グローバル時代における百貨店の挑戦
ーー近年、ECサイトで衣服を購入することが可能になり、実店舗に足を運ばなくとも世界中の商品を手にすることができるようになりました。こうした販売形態の多様化は、百貨店にどのような影響をもたらしたのでしょうか。
高度成長期までは、いろいろな産業を結びつけるハブとして百貨店が存在していたと思います。小売業界のなかで占める売上の比率が高かっただけではなく、アパレル産業などとともに販売市場を拡大し、旺盛な消費意欲を持つ消費者の動向を生産者に伝え、新しい需要を創造してきました。80年代以降は、ラグジュアリーブランドが台頭しましたが、それでも当初は百貨店が主導権を握っていたのは先にお話しした通りです。ところが、ラグジュアリーブランドが日本法人を設立し、本社のコントロールが強くなると、百貨店とのパワー関係が変化してきました。その結果、アパレル商品や身の回り品の売上比率は減少し、いまは食料品の売上シェアが大きくなっています。
ここにグローバル化の影響が現れていると思います。つまり、百貨店がハブとしての役割を担うことができなくなり、結果として競争力が弱くなったということです。たとえば、百貨店アパレルが商品の生産地を中国へ移転したころは、競争力のあるメーカーと取引することができました。ところが、最近では中国の生産者が日本の百貨店アパレルとの取引を徐々に嫌がるようになっています。
日本の百貨店の活動が国内に限定され、日本の百貨店卸が「自分たちがターゲットとする市場はドメスティックです」と謳ったとしても、競争はグローバル規模で展開していきます。そのため、国内外の競争原理に巻き込まれて取引量が少なくなれば、中国の工場は結果として大量のロットを確保できるファストファッションや欧米の企業に目を向けることになります。これこそ百貨店アパレルの失敗だったと思います。
ーー『百貨店の生成過程』では「現代の百貨店は、百貨店という業態の将来像を描くことができずに、苦悩しているのではないだろうか」と指摘をされています。かつて万国博覧会が1つの転換点になったように、2025年の大阪万博は変化のきっかけになると思いますか。
120年前と比べれば、万国博覧会が果たせる役割は相対的に小さいものでしょう。1900年のパリ万博や1904年のセントルイス万博で百貨店が受けた衝撃が再びもたらされることはないと思います。
もちろん、サステナブルファッションやエシカルファッションといった新しい仕組みが提案されることで百貨店が何かを感じ取り、関連する業界も含めて大きな変化につながるという可能性はあると思います。
ーー今後、ますますデジタル化やグローバル化が進むなかで、百貨店の存在をどのように捉えていけばよいでしょうか。
かつてのように、各産業のハブとして百貨店が存在し続けてほしいと願っています。ただ現状を直視すると、それは難しいことだとも思っています。
百貨店の方々は「自分たちが新しいファッションを創り出す」「いつまでも百貨店が最先端であり続けないといけない」という意識を強く持っています。その姿勢を維持することが百貨店のアイデンティティを守ることに繋がるのであれば、次々に最先端を追い求め、新しいビジネスモデルを模索する必要があります。その方向がZOZOのような新しいプラットフォームを構築していくものなのか、それとも違う方向なのかはわからないですが。
他方で、外商のような高品質のサービスを提供し、ハイエンドの商品を販売する機関であり続けると考えるのであれば、これまで百貨店がターゲットとしてきた市場ではなく、より小さな市場にシフトし、そのなかで最大限に自分たちの良さを発揮するという方向があると思います。ビジネスを継続することが大事だと考えるのであれば、百貨店であり続ける必要はないですし、企業を生かす上では違う業態に転換するのはあり得る選択肢だと思います。
トップ画像:ボン・マルシェ(藤岡撮影)
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