【特集・コラム】呼吸をしない街が教えてくれた。「ファッションが楽しかったのはなぜか?」ということ。(佐藤亜都)
佐藤 亜都 / ライター
1992年生まれ。早稲田大学在学中に渡仏し、たまたま見たパリコレに衝撃を受けファッション業界を志す。セレクトショップで販売職を経験した後、2015年からファッションベンチャー企業スタイラーに参画。ニューリテールプラットフォーム「FACY」のオウンドメディアの編集やポップアップストアの運営を経て、デジタルマーケティング支援としてInstagram運用代行を行う。2016年より越境レディのためのSNSメディア「ROBE」(@robetokyo)を手がけ、東京コレクションやパリコレクションをまわっている。2020年春に独立し、現在はライフスタイルブランドFoo Tokyoのデジタルコミュニケーション担当など。趣味は、東京の可愛い若手ブランドを勝手に広めること。 Link:Twitter / Instagram
なぜあんなにも真剣に選び、袖を通すたび、心弾ませていたのだろう。私は今まで、何を思ってファッションを楽しんでいたのか。こうなるまでは「自分のため」だと思っていた。
非常事態の日常
まだ新型コロナウイルスが世界を飲み込む前の2020年2月、私は長く勤めた会社をやめた。不穏な影が色濃くなり始めた3月から、フリーランスとして数社で働いている。自分でもなんというタイミングだろうか、と思う。どうしても関わりたかった仕事はウイルスの影響で白紙になった。新しい職場は慣れる前に在宅勤務となり、未だに緊張しながら大人数のオンライン会議に出席している。
家で過ごして1ヶ月になる。緊急事態宣言が7都市に発令される前から、買い物と散歩以外は極力外出していない。もともと、思い立てば明日にでも地球の裏側へ行ってしまうような性格なので、外出できないことは体より心にこたえている。ちょうど一昨年のこの時期に欧州を一回りしたなぁと、iPhoneのカメラフォルダを見返しながら美しい花に溢れた都市に思いを馳せた。6ヵ国を巡った旅の写真の半分はファッションに関連した展覧会や店の写真。ようやく取れた有給休暇の最中ですら、ファッションのことを考えていたようだ。今は、どうだろう?
あぁ、せっかく春がきたのに。ちょっと苦手なアウターを着なくてすむ時期なのに。新たな門出の祝福として買った「PATOU」のブラウスはいつ着ようか。
花咲き誇るポルトガル・リスボンの景色。この街を訪れたのは好きなブランド「5-knot」がコレクションのインスピレーション源にしたという、ポルトガルの伝統的な装飾タイル「アズレージョ」を見たかったから。
ロンドンで開催していたALAÏA展で配られていた香水のテスター。こんなところまでALAÏA!ボディコンシャスを美しく見せるため、一体一体マネキンを特注していたのも印象的でした。
ロンドンのデパートDebenhamsで販売されていたRICHARD QUINNのコラボコレクションは、見逃すわけにはいかなかった!買おうか盛大に悩んだものの、既にサイズの欠品により断念。マダムになって太った時用に着るために、記念購買しておけば良かったと後悔。
街の呼吸
4月の終わりに、所用で銀座へ出かけた。それまで家に篭りネットも極力見ないようにしていたので、正直、非常事態の日常に慣れ始めていたが、現実の光景に愕然とした。
街が息をしていなかった。聞こえてくるのは車の走行音とまばらな足音だけ。歩く人々は皆ひとりなので話し声すら聞こえない。そこには確かに、人がいるのに。4月とは思えない寒さと曇り空も相まって、急に目の前の現実世界に恐怖を覚えた。私たちは生きていかねばならないのに、一日で億単位のお金が動くこの街が生きていない。いつもなら眩い光で私たちを出迎えてくれる百貨店のショーウィンドウには何もなく、荘厳な建物だけが、静かに佇んでいる。「この街で動くはずだったお金はどこにあるのだろう?」静けさが意味するその事実が怖かったのだ。
防犯上の理由なのか、店内から商品が消えたセリーヌ ギンザ シックス店。
ソーシャルディスタンスを表現するバーニーズニューヨーク銀座店のウィンドウ。店が今唯一メッセージを発信できる「ショーウィンドウ」の活用方法としては最高だと思った。後ろに書いてあるボードの内容にちょっとクスッとする。
百貨店のショーウィンドウから消えた商品。什器だけが寂しく佇んでいる。
いまファッションにお金が動いてこないのは世の中から「不要不急」とされているからだということは十分承知している。しかし、本当は多くの人が思うほど必要とされていないわけではなく、この非常事態がきっかけでファッションの必要性に気がつく人も多いと思っている(別れてから気がつく恋人の大切さのように)。今まで必要性に気がつかないまま無意識のうちに新しい服を買い、トレンドやTPOを意識していたのは、“服を着ていくための” 当たり前すぎる日常があったから。こうした日常が突然なくなったことで、何のために服を買い、おしゃれをしていたのかを、一人一人が考えるタイミングになったのだと思う。そしてそこで気がつく人は気がつくのだろう、装うことは決して無駄な活動なんかじゃなかったということに。
「ファッションは不要不急」と言われる中、自分自身も改めて「なぜファッションを楽しめていたのか」を考え直した。人がいなくなり呼吸を忘れた街を歩くと、強く思う。私はこの街でファッションを楽しめるのか?と。そして自分がどれほど、日常で生きるファッションを愛していたかを。
クリックじゃ替えられない右手の重み
街から帰ると、いつもなら街で出会い気になったものを検索して深掘りしている。「あなたの好みはこれ」と、パーソナライズされたECのレコメンドをスクロールするより、街を歩いて思いもしなかったものに出会える方が楽しいからだ。予定調和の出会いより運命の出会いの方が “ときめき” を感じるのと同じで。
もちろん、こんな銀座の状態では何にも出会えず、ショッピングバッグをぶら下げる「右手の重み」が恋しくなった。今までのようにネットとリアルを行き来しながら買い物をしたい。ネットで調べお店で見て、もう一度ネットで調べてお店に戻って買う...お店で見てネットで調べ、ポイント還元率や送料、配送時期などを考えた上でネットで買う...感覚派をうたいながらかなり現実的に買い物をしてきたので、選択肢が一つというのはちっとも便利でも快適でもない。
ウイルスの危機に晒され時代がグッと加速したのは事実だと思うが、変化には痛みが伴う。声の大きな人たちから聞こえてくる「コロナ後の新たな世界」というものも、今の時代をそつなく生きていける「勝者」の戯言にしか聞こえない。「デジタル化」についていけなかった人たちに「時代遅れ」「負け組」というレッテルを貼ってはならないと思うのだ。この業界もまさにそのレッテルを貼られているのだが、「ついていけなかった」ではなく「できない」が正しいのではないか。ここにきて「何でもかんでもデジタル化」を考え直す時が来たのでは、とも思う。
ワンクリックで物が買えて10分後に届く世界を、私は便利だとは思わない。ときめき、悩み、相談し、またときめき...頭を冷やして、決断する。ワンクリックの軽さは、ショッピングバッグをぶら下げた右手の重みには替えられない。
ファッションはなぜ楽しい?
生きた街を歩いていたときはショッピングバッグを手に持つ高揚感は当然のものだったし、ネットで買えることはもはや当たり前だと思っていた。そして買い物は一人でする方が落ち着くし、自分一人でもファッションは楽しめると思っていた。自分の気持ちを高めるため、自分の存在感を示すため、自分を落ち着けるため、自分を可愛がるため…。人に何と言われようと好きなものを着ていたし、最低限のTPO以外に守るものなんてなかった。でもそれは大きな勘違いだったと、息をしない街が教えてくれた。
知り合い・他人に関わらず外で人と会うことがなくなって、一気に “おしゃれ” をする気がなくなった。ワンマイルの移動はコーディネートなんて一切考えないデニムとパーカースタイル、どうせマスクをするのでメイクは眉毛だけ描いて準備完了。フルメイクなんて3週間もしていなかった。自分でもこの事実にとても驚いている。こんなことになる前は旅をしている時ですら四六時中ファッションのことを考えていたし、誰とも会う予定がなくても全身武装して伊勢丹を隅から隅まで散策していたのに。
私がファッションを心の底から楽しめていたのは、社会と触れ合う接点があったから。自分の気持ちが高まるのも、ただの自己満足ではなく「あそこに着ていきたい」「あの人に見て欲しい」そういう願望があったからだと気がついた。他人の目なんて気にしないと豪語していたが、本当はいつだって生きた社会の中で、ファッションを使って人や街とコミュニケーションを取ること自体を楽しんでいた。私のファッションには、すれ違う他人や向き合う相手、背景となる街が必要不可欠だったのだ。
そう気がついたら、ますますファッションへの愛と欲求が増したように思う。早く、今まで以上に「見せる」ことを意識して服を纏いたい。つま先から頭の先まで、強い意志を持って日常に存在していたい。私の2020SSコレクションがいち早く日の目を見ることを夢見ながら、新たな気持ちでファッションと向き合い始めた。